1970年代前半からインディアン・ムーヴメントは全米中に広がり、
世界のメディアもニュースに取り上げ始めた。
全米各地でインディアンの祈りがエコーし、人種の壁を越えたサポートも
見え始めたが、同時期にアメリカ政府からの圧力も激しくなり、
インディアンの生活情況は改善されるにはいたらなかった。
時は1972年クロードッグズ・サンダンス、グレート・スピリットはインディアン達の悩みや死活問題を
世界中の人々に知らせるために、トレイル・オヴ・ブロークン・トリティー(Trail of Broken Treaty,
破壊されたいくつもの条約の道) という名のギャザリングをワシントンDCで行う事を声明した。
この歴史的背景には200年に続くアメリカ政府とインディアン国家で結ばれたいくつもの条約、
たとえば主権維持や不可侵条約などが、アメリカ政府の都合で壊されて、
インディアンの悩みの核の源となっていた。
時期は大統領選挙週間で世界中のメディアがワシントンDCに集まっていた。
幾多の交渉により、インディアンの代表者とニクソン大統領との会見が約束された。
レオナードも代表者のひとりであった。がしかし、どたんばで大統領との会見はキャンセルされ、
内務省の役人が会見相手として政府から送られてきて、根本的なインディアンの死活問題は
有耶無耶にされてしまったのだ。
長旅で疲れていたインディアン達は約束されていた宿舎によってみるとそこは廃墟化された建物で
とてもじゃないが長老や女子供たちが休息できる場所ではなかった。そこでインディアンたちは
アメリカ内務省管轄のインディアン事務局のビルに休息を求めていったのだ。
ちなみにインディアン事務局はインディアン達の生命安全を保障するための役所である。
インディアンの女性達は料理を始めたり コーヒーを作ったりしてリラックスし始めた矢先に、
インディアン事務局ビルの周辺はFBIと警察特種部隊に囲まれていた。武装した部隊は
窓を割りビル侵入を試みた。そこで青年インディアンたちがこの事態に憤慨し、
ビルをインスタントの要塞にこしらえた。
アメリカ政府とインディアン事務局ビルの中間地に設けられたティピーで幾多の交渉が行われ、
政府はインディアン国家の自律と主権を約束し、この一件は治まったのだ。レオナードは交渉の時、
政府の役人達とピースパイプを吸い、お互いが傷つかないように祈った賜物であった。
インディアン達は政府から旅行費を頂き、それぞれの故郷に帰っていった。
その後のインディアンの生活情況は政府が公約したものではなく、加速して酷くなっていった。
とくにサウスダコタ州のパインリッジインディアン居住区はGDP(国民総生産高)が内戦状態の
アフリカの国々より低く、自殺率がハイパ−インフレ状態であった。時は1973年2月の激寒の日に
インディアンの集会があり、レオナードも参加して祈りを捧げている時であった。インディアン女性がこう発した。
『ウーンデッドニーに行って全インディアンの祈りを世界中に向けて発信して、御先祖様の意志を伝えよう。』
ウーンデッドニーはインディアンの聖地であり、1890年に大虐殺が行われた場所でもあった。
レオナードと同志達はウーンデッドニーを解放し、世界中に向けてインディアン国家ウーンデッドニーの
独立宣言を発信した。71日間という時ではあったがそこでの生活は真のインディアンの道に沿ったものであった。
喜びと悲しみ、生命の誕生と死の狭間でのインディアン・ウェイ・オヴ・ライフはレオナ−ド曰く、
『ウーンデッドニーでの生活は、インディアンとして活き活きし、強烈であり最高のときであった。』
1978年にはA.I.M.アメリカン・インディアン・ムーヴメント主催の全米横断のロンゲスト・ウオーク
平和行進が行われ、グレート・スピリットの指事のもと、一歩一歩母なる地球を歩き、
雨にもまけず風にもまけず、摂氏50度の灼熱の時や、マイナス30度の高山での激寒にも挫ける事なく、
過去、現在、未来の人々への平和の祈りと希望を背負い、
レオナードもチーフとしてメディスィンマンとして一人の人として歩き祈り続けた。
このアクトの賜物として、当時のアメリカ合衆国大統領カ−ター氏はインディアンの伝統儀式と
文化を法律的に認め、それ以後、インディアンは先祖から伝わる
儀式や文化を後生に伝える事が法的に認められたのだ。
2000年10月12日先住民の日にチーフ・レオナードはホワイトハウスに正式訪問し、
時の大統領ビル・クリントン氏と大統領チーフスタッフに対して、
未来の人類に対して我々が何をすべきかをアドヴァイスをした。
其の一環として、インディアンリーダー・
レオナード・ペルティアの解放を要求した。